お年寄りに敬意を持つということ

今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」

昔からお年寄りに対して敬意を持つということがわからなかった。
感情論抜きで客観的な事実だけを見て考えると、年金暮らしで働いていない方は
生産性がない 国のお金を消費している 無価値である
そんな考え方を持っていた。
もちろん、そんなことは大きな声では言えないし、自分の胸のうちにずっと隠して生きてきたわけだ。

不満というほどでもないが、医療費に関しては思うところがあって、私は人生で病院に行ったことがほとんどない。大きな怪我をしたこともないし、唯一膝の靭帯を伸ばしてしまったときも整骨院に1回行っただけであとは自宅療養だった。
つまり私は人生のうちに国に負担してもらう医療費はわずかである。
けれども保険料は国民一律の金額をずっと払い続けている。
不満ではないけど思うところがあるのだ。

数年間まったくテレビを見ていないけれども、自宅の押し入れにテレビがあるということで、NHKの放送受信料を払い続けていたときと似た感覚だ。

去年、日本人は年間で平均して何回くらい病院に行っているのかというデータを見たことがあるのだが、それを見て自分の感覚とは大きく違っていたのでたいへん驚いた。
なんと平均的には年間で約12回、毎月1度は病院を利用しているというのだ。
私はおろらく31年間で3回くらい…?10年に1回??

しかもその平均を大きく引き上げているのは高齢者の存在だ。

自分とほぼ関係のないところで税金がたくさん使われているというのはなんというか、歯がゆいような感情が沸き上がり
こうした理由で私の中で年金暮らしの老人ってほんと老害だなっと思っていた。


けれども、ある時それらの価値観について考えさせられる意見を持つ人と話す機会があった。

正直そのとき会話の内容はあまり覚えていないのだが、強く覚えているのが

いま、私たちが教授している様々な社会の恩恵は、お年寄りの方々がその礎を築いたと言ってもいい。
現代ではブラック企業だとか、働き方であったりとか、労働環境に関して毎年のように是正されたりしているが、昔はそんなものなんてなくて、まさに死に物狂いで社会を帰るために働いていたはずだ。

若者の選挙投票率が低い大きな理由として、投票数はお年寄りの方が全体として多いのだから、政策もお年寄りに有利な法案に片寄ってしまう、投票しても無駄。なんて考え方があるみたいだが、事実がそうであっても
お年寄りの選挙運動の参加は若者のそれよりも圧倒的で、後援会の存在や政治家の演説などでも熱狂的なのは多くが高齢者である。
それだけの熱量をもって政治に関心を持っていないから、現状なのだと考えさせられる。


老人は無価値だと決めつけていたが、どの視点で、どの立場で、どの部分を見てそう決めつけていたのであろうかと自分を恥じた。

人の人生とはその全てで評価されるべきであって、点で判断できるものではないのだ。
いや、評価するという言葉にもどこか傲りもある。

人の価値なんて人が決めるものではなく、人を尊重して自分に足りない部分を学び自己の成長に変えようとする思考が敬意であるのかもしれないと思うようになった。